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「異界の風景」東京藝大油画科の現在と美術資料展カタログより

 

(104p~107p)

  回廊と題した作品は、舗床モザイクと大理石塊による展示である。題名の通り回廊の機能を持つ作品であるが、普段は通過するだけの美術館脇の空間に、突然床構造の一部が現れ、非日常的空間を人々が体験するという設定である。野ざらしの床としてとらえるならば古代の遺構を連想する人もいるかもしれないが、この作品を媒介して連鎖するイメージ、例えば歴史性やノスタルジーというような個人に内在する記憶を呼び寄せたり、モザイクの図像と落ち葉の重なりを見たり、地に射す陽の傾きを感じたり、作品上に起こる日常の非人為的な出来事を視覚的に楽しむ人がいるかもしれない。美術館の外に設置した作品によって新しい風景が生まれ、その風景の中を行き来する鑑賞を目的としない人々が、作品とどのようなふれあいを持つのか、日常生活における美術との距離をこの展示から探りたいと考える。このモザイクは既存の建物の床を想定したものである。始まりの円の連続幾何学文様は、多様に変化しながら繰り返すリズムによって目を惑わせ、その先へと視線を導く誘導装置である。建物の玄関を入ると真南に延びる長い回廊があり、その突きあたりの大きな窓から雑木林が目に映る。晴れた日には陽の光が角度を変えながら一日中差し込み、満月の夜は青い光に満ち、木々の影が壁や床に映り込む。回廊に描かれた図像は、一日の光の変化、四季折々の色彩、風の音、そして宇宙のエネルギーを受けながら蠢く生がテーマである。展示では回廊の突端に一対の大理石塊を置いた。このプランは、展示空間から引き出された要素である。大理石塊は、地面に対して垂直に立ち上がり圧倒的な質量と重量感によってモザイクの回廊を遮断する。この対比は、自然物の無為の力強さとともに素材そのものの強い表現力を観る者に与える。壁画において重要なことは、作品の中だけで完結する世界ではなく、作品そのものがその場と呼応し、且つその環境に耐えうる構造と機能を備えていることである。これらの要素が作品の枠組みに入らなければ壁画という芸術は成立しない。
  モザイクの代表的な表現スタイルには、ラテン語表記となるオプス・テッセッラートゥム (Opus Tessellatum:テッセラによる作品)、オプス・セクティーレ (Opus Sectile:象嵌による作品)、オプス・シンニヌム (Opus Signinum:モルタルの打ち込みによる作品)がある。テッセラ(Tessera)とは石材をハンマーで割り、さいころ状に加工したものを指すが、今回出品した作品は、上記三種類の表現スタイルを併用している。オプス・シンニヌムは、コッチョペースト(Cocciopesto:細かく砕いた煉瓦片を骨材とするモルタル)と白黒のテッセラの組み合わせによる技法であり、古代ローマ時代に大変好まれた表現スタイルである。しかし、どのような方法で作られたのか、それを伝える資料は残っていない。25年程前、イタリア留学中にこの素朴な技法に興味を持ち、或るイタリア人研究者から直接指導を受ける機会に恵まれた。師は、自身の研究によって得られた技法であると述べ、確かなことは誰も知らないということであった。帰国後、その技法理論を手本に試行錯誤を重ねながら自己流の制作法を考案した。今回展示した作品もその方法で制作したものである。
モザイクのイタリア語表記はMOSAICO、音楽はMUSICAである。綴りが似ていることに気がつく。(モザイクの)という形容詞は、MUSIVA(O)と記され、更に似ている。モザイクも音楽もギリシャ神話にでてくる詩や音楽を司るニンフMUSAIが語源といわれる。ニンフ達が神への祈祷を捧げるときにモザイクで装飾した祠で音楽を奏でた。ということに由来するが、音の断片を組み合わせたものが音楽ならば、色の断片を組み合わせたものがモザイクであると解釈すると、ジャンルの区別なく芸術作品には共通する理念があるように思えてくる。モザイクの歴史は古く、現存する最古のモザイクは、大英博物館が所蔵するB.C.2700~2500年頃に存在したといわれるシュメール人の都市国家ウルの王墓から発掘されたウルのスタンダードと呼ばれるものである。熟練した加工技術からメソポタミア文明の頃にはモザイクが既に存在していたことを物語るが、その後ギリシャ人・ローマ人が技術的に表現を高め、現代につながるモザイクを確立させた。彼らは都市環境を構成する重要な要素、特に床に用いる絵画表現としてモザイクを重宝した。大理石とモルタルによる制作技法は、床の機能と構造を兼ね備えた表現として成立したものである。4世紀にはキリスト教の広まりとともに教会堂の壁面をモザイクで飾る様式が確立し、床の機能を逸脱した壁画表現として主要な技法となっていく。長い歴史の中で絵画は変容しながらフレスコ画、油画へと時代は変わっていく。モザイクを研究すると人間の社会生活と絵画との関係、そして文明社会における美術の役割がみえてくる。絵画の基礎教育において重要なことは、絵画の歴史を学ぶこと。そして、なぜその表現技法が成立したのかを理解すること。それらの知とともに事物を観察する姿勢、そして忍耐強く続けることによって獲得できる技術である。ところで、なぜモザイクという古代に考案された絵画表現が固有の姿を有しながら、その技法が人々によって受け継がれ、現代まで生き続けてきたのだろうか。自分がモザイクという表現技法にこだわり続けるのは、その辺りに一番の魅力を感じるからだろう。 壁画の関連資料として掲載した小川三知(おがわさんち)作のステンドグラスは、芸大の収蔵する明治、大正期の作品において唯一の壁画(建造物の一部を成す)作品である。壁画に関連する収蔵品の少なさに驚かされるが、本来建造物と一体であるべき壁画は、地震や火災等災害の多い日本では作品だけ生き延びる機会は少なかったと推測する。一方で美術作品は美術館や画廊で鑑賞するもの。という市民意識の中で、その範疇から外れる壁画がファインアートより下に扱われてきたことも事実である。このような社会基盤の中で、壁画に関する認知度と相俟って、壁画を研究する専門家や論評する批評家は少なく、批評されないから育つ人材も少ないという悪循環が生まれる。芸大の壁画に関する収蔵品の少なさは、その歴史を反映しているのかもしれない。
  和藤内と題したこのステンドグラスは、元は個人邸の窓に収められていたものである。近松門左衛門作、国性爺合戦の歌舞伎舞台の名場面を題材に描いているが、これは注文主の依頼によるもので、植物や小鳥、魚等自然のモチーフを好んで描いた三知の中では珍しい作品である。縁取りに描かれた屏風仕立ての金具の図柄と唐草文様の組み合わせは、明らかに建築とのかかわりを意識したものであり、作品全体にみられる和洋折衷の試みは、当時の建築スタイルとの様式的統一を図ったものと考えることができる。西洋で生まれた表現技法を学びながらも日本人の感性や伝統的な装飾文様との融和を図り、独自のステンドグラスのスタイルを確立していった三知の世界の根底には、東京美術学校時代に学んだ基礎的な絵画表現と窓に対する日本人の意識、つまり外側と内側の隔絶ではなく融和、障子紙を通した気の行き来のような自然との一体感を好む日本の風土的要素があり、これらが自己の表現を培ってきたように思われる。
  小川三知は、1867(慶応3年)年静岡に生れ、東京美術学校に入学し、橋本雅邦から絵画技法を学ぶ。1900年アメリカ合衆国シカゴ美術院に留学し、ステンドグラス技法を学ぶ。その後、アメリカ各地のステンドグラス工房を渡り歩きながら修業を積み11年間の留学生活を終え、1911年に帰国する。帰国後、東京田端に工房を開き、ステンドグラスの制作に没頭する。個人邸、学校、図書館、公会堂、教会等多くの建造物に作品を制作した。大正から昭和初期において活躍したステンドグラス作家であり、我が国に建築装飾としてのステンドグラスを伝えた功績は大きい。1928年(昭和3年)没。享年62歳。

参考文献: 日本のステンドグラス 小川三知の世界 増田彰久、田辺千代著 白揚社 2008年

2009年10月 工藤晴也

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モザイクの真実
副題:世界遺産ガッラ・プラチディア廟モザイクの保存と修復
 
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